板橋宿→蕨宿(二/六十九)

1日目に日が暮れてよく見ることができなかった板橋宿からあらためてスタート。

にぎやかさは健在の仲宿
大正初期の商家の建築が残る米店。おにぎり等を求める人で人気
これぞ「板橋」

本陣、脇本陣など、「跡」として立て札のみが残る場所も多いけれど、そこは目を閉じて往事を想像しましょう。

板橋宿を過ぎると、志村坂上、蓮根、浮間といった、地名だけ知っている場所を通って行きます。そのひとつひとつの地名に、意味があるのだなあと、江戸時代の旅人になったつもりで思い描きます。

縁切榎を過ぎると板橋宿もはずれていく
志村一里塚は日本橋から3つめの一里塚。2基一対でここまで残されているのは少ない
志村清水坂。ここからは見事な富士山が望めたとか

途中、名残の「何もない」ような国道17号線を通っていきますが、それでも最近はすっかり見ない材木屋さんなどが残っています。新河岸川を渡ると間もなく大河荒川。江戸を守るため、ここは舟でしか渡れなかったそうで、こっち岸とあっち岸に渡船場の碑が建っています。このあたりは、そうした生業の人々、渡船待ちの旅人たちで大いににぎわったのではないでしょうか。

荒川を渡ればいよいよ埼玉県。戸田市の間は、またあまり名残のない主要国道沿い。でも、2つめの宿場、蕨宿にはいろいろありそうです。

わくわくする立派な石票
蕨市立歴史民俗資料館分館
歴史民俗資料館内の往事の蕨宿のジオラマ

蕨市立歴史民俗資料館分館は残念ながら閉館直後。次回はここからスタートです。江戸末期からのお茶屋さん、今はおせんべい屋さんの萬寿屋さんに立ち寄り、おいしいコーヒーをいただき、おせんべをお土産に求めました。店内には浅田次郎さんがロケで訪れた際のサインがありました。『一路』と。

おせんべ屋さんの奥さんが、近所の、やはり江戸時代からの鰻屋さんを教えてくれました。ぜひ行きたいけれど、鰻屋さんで鰻を食べるとなると、何か「自分へのごほうび」となることを成し遂げなくては。
かつて、この先なかなか鰻が食べられなくなるからと、蕨宿、その次の浦和宿には鰻屋さんが多かったそう。このあたりに、鰻がすむ川や沼が多くあったこと、江戸を去る人がいかに鰻が好きだったかが忍ばれます。
三学院の美しい境内、和楽備神社のお社にお参りして、JR蕨駅から帰りました、